軌跡と発信、きっかけ。

 

 

 

お久しぶりです。あむです。

2019、いかがお過ごしですか?

 

私はここ数日間、やっと2019迎えた〜という気持ちになっております(笑)

新年早々いろいろなことがあって、1月は大分不安定な状況で日々を過ごしていたのでここ最近やっと安定した情緒で生活できています。

 

 

そんな日々を通り越した先に見えたことが多々あったので、今日はそれをブログに書き留めておこうと思いました、

 

 

 

1月、大好きな彼と別々の道をゆく決意をしました。

両親と自分の将来を決める話し合いをしました。

いろいろな人と関わって、話を聞いてみたりしました。新しい出会いもありました。

 

 

 

 

一つの事象に対する自分の本心すらわからないまま、次々と向き合わなければならないことが降ってきて、錯乱したまま答えを求められて、それでも仕事はこなさなければならないし、1月の私は完全にキャパシティが足りず不安定な状態でした。

 

 

感情的になって現実逃避だってしたし、そんなことしたって答えが出せないことも、仕事が片付かないことも、わかっているつもりではありました。それでもその選択をしてしまうくらいに、物事の本質が見出せなくなっていました。そんな1月でした。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

AM5時の帰り道の歩道橋で音楽を聴いていたときに思ったことがありました。

 

その瞬間聞いていた曲は、なんだったかな。

SHE IS SUMMERか、あいみょんか、ずっと真夜中でいいのに。だったかな。

 

 

彼女たちの作った曲を聴いていて、ふと、本当にふと、思ったことがあって。

 

それは、

この人は、どんな気持ちで、どんなタイミングで、どんな経緯で、どんな時間に、こんなことに気がついて、こんな気持ちを、こうやって表現しようと思ったんだろう。

 

 

 

今まで、音楽の中にタイミングや時間を見出すという概念がなかったので、それを思った瞬間、私の中で「歌詞」というフィクションのストーリーが急にノンフィクションになったのです。

 

 

彼女たちの中で、様々な曖昧ななにかがたくさん動いて、巡って、私たちに伝えられるような明確ななにかに切り替わる。その瞬間は、いつなのだろう。

 

日曜にAM10時にぼーっとした頭で窓の外をみてる瞬間かな。

眠れない木曜のAM2時に、天井を見上げる瞬間かな。

それとも、山手線に揺られながら音楽を聴いている日曜の昼過ぎかな。

 

それを見つけ出すためには、どんな感情の変化を超えてきたのかな。

 

 

 

そんな愚問を次々に抱いていました。

 

 

 

そんなこと、考えたってわからないけれど、私の頭の中から離れずにいて、もやもやしたまんま眠りにつきました。

 

 

 

 

PM4時、起きてから数秒して、ふと思ったことがありました。

 

 

 

時間が並行ならよかったのに。

 

 

 

 

今までずっと、時間(の中にある感情や出来事)は、縦に積み上がるものだと、当たり前のように思っていました。

その積み上がった軌跡のいちばん上に今日の私がいて、今日の私が思ったことを口に出すのです。

そのひとつひとつの発言が、私の軌跡の象徴であり、成長の証なのです。

 

 

でもそれは、あまりにも脆すぎる。

 

 

 

 

1月、たくさんの感情を超えてきて、時には“私らしい”に反した感情すら抱いて、それは今日の私によって掻き消される。なんにも積み上がってはいなくって、ただ生じて、消滅する。目に見える形で残していないのだから、当たり前のように忘れてしまう。通過する意味はあったとしても、鮮明に残してはおけない。

 

 

私は、アーティストの方とは違って、感情を発信するようなお仕事はしていないので、彼女たちとちっぽけな私との違いに気づいてしまったのです。

 

 

 

 

 

彼女たちは、時間を並行に生きていて、時間(の中にある感情や出来事)を横にならべて生きているのだと思いました。

 

 

上から今日の私が全てを見下ろせるとして、

軌跡の象徴であるこんにちの私としか向き合えない縦軸の私とは違い、彼女たちはその都度その都度、感情を残すことで、横軸に生きているのだ、と私は思いました。

 

全ての違和感がほどけた気がしました。

 

 

 

 

彼女たちは、あの瞬間の自分に戻るきっかけを、音楽として作ってくれているのだと思いました。

 

聴覚として、時には視覚として。

 

 

なにも残せていない私は、縦軸でしか生きられない。

でも彼女たちアーティストの力を借りて、「この曲懐かしいね」「この時こんなことしてたね」と時には横軸に見るきっかけを、彼女たちがそのお手伝いをしてくれているのだと思いました。

 

 

 

 

 

 

 

 

横軸の時間を意識し始めてから、その都度の感情を意識して日々を過ごすようになってから、2月は安定した生活が送れているとおもいます。

 

 

過去を振り返って、時には過去に感情移入して、そうしたら、それが“過去の話”ではなく“今日の気持ち”になったりして。

 

そうやって一つ一つ大切に味わえたら、過ぎた事象も軌跡なんて儚いものではなく、今日の私だったりするのかな、と思えました。

 

 

 

 

 

 

あの時間の私が、不安定だったから、音楽を聴いていたから、過ぎた日々を儚くおもっていたから。

そういう全てのタイミングが重なったからこそ気づけたこと、せっかくなので残しておこうと思って!いつかまた不安定になったり、見失う日が来たら、これを読み返そうと思います、自分で(笑)

 

 

 

 

2019年もよろしくおねがいします。

2017からかな?お世話になっているフォロワーの皆さまが求めているような私ではないのは自覚しています(笑)それでもなおフォローし続けてくださって、うれしいだいすきちゅっちゅって感じです(突然)

たまーに、現場にも顔を出すので、よろしかったらまた、彼らと皆様のキラキラした青春に私も混ぜてください。

 

 

 

別れる、ということ

 

 

 

飽き性が故に、続きません。

やろうと思ったことが、一向に続かない。

 

 

 

実はこの2ヶ月間、ブログに残しておきたいと思ったことが2つあって、途中まで書いたけどやっぱり飽きてしまって。感情は生ゴミ。だから、持ち越したりすると忘れてしまったり、書きたいという熱意がなくなってしまうんだよね。反省しています。

 

 

 

 

 

みなさんは、「別れ」と聞いて、どんな情景を思い浮かべますか?

 

 

 

私が体験した、今までの人生の中でいちばんの別れは、ハッピーエンドじゃなかったけれど必ずしもバッドエンドではなかった気がします。

 

 

 

高校2年生の冬、当時いちばん、一緒に悪いことしたり、一緒にお腹抱えるまで笑ったり、6時間ぶっ通しで語ったり、わくわくを共有したりした大好きだった友達と、お別れをしました。

 

2019年が私に挨拶するころ、あの冬から2年が経つことになります。

 

この2年間、色々なことを見て、感じて、あの時の私が想像もしなかった出来事と遭遇したり、あの時の私が望まなかったことを望むようになったり、私は大人になったと思います。少なからずあの時よりは。

 

そして同じように、私の知らないところで、私の知らない彼女が、成長しているんだろうなあと、新しい季節の風に触れるたびに思ったりもする。

 

 

 

 

たくさん後悔した日もあったし、目が腫れるまで泣いた夜もあったな。でも、もしあの日に戻ったとしても、私は同じ選択をすると思います。

 

 

 

あの時の私はまだ子供で、彼女の嫌だなあと思う部分、浅はかだなあと思う部分がどうしても心に突っかかってしまって。

それが心のキャパシティを超えて、口に出したりする時もありました。

 

でも口にするたびに、後悔するんだよね。

ノリが良くて面白くてフットワークが軽くて、そんな彼女のことが大好きな気持ちは変わらず芯にあったから。

 

「だから、こんなに好きだと思える友達に会えたのも奇跡だし、嫌いになりたくないから、嫌な気持ちに侵食される前にお別れしよう、私達ならいつかどこかで会える気がする。」

 

 

 

 

そう思って、お別れしました。

 

 

 

 

私の別れの価値観は、「いつかまたどこかで会えたら笑顔で話せたらいいな」くらいの、そんなに深くない別れ、だったんだけれど、どうやら相手は違ったみたいで。

 

彼女は、私の何倍も何十倍も、深くて濃い別れの価値観を持っていたようでした。

 

 

だからきっと、彼女には会えません、もう2度と。きっと一生、なにかを共有したり、笑い転げたりする日は来ないと思います。

 

 

 

そうと分かっていても、やっぱり私は同じ決断をしたかなあ。どうなんだろう。

 

 

 

 

 

 

でもね、あの時の別れは、私にいろんなことを教えてくれました。

 

きっと心のどこかで、あの時のあのことが土台になって、知らず知らずのうちに私はいろんな選択をしてると思う。

 

 

 

 

 

あの時の後悔も、楽しさも、嫌悪感も、彼女といたことで生まれた全ての感情たちが、今の私を作っていると心から思えます。

 

 

 

 

 

私はいつしか、絶望や別れを、何かの結末だと捉えなくなりました。

 

これが一番大きかったかな。

 

嫌なこと、辛いこと、逃げたいと思う気持ち、嫌悪感、嫉妬。

そういう自分にとってマイナスに動く感情の全てが、私にとっては何かの素材になってくれるんだと、信じ切れるようになりました。

 

 

 

 

 

こういう思想が育ったのは2018年の4月です。

彼氏の誕生日のお手紙に、私は

 

「貴方が向き合ってきた嫌なことも辛いことも嫌いな人も、私はそれに感謝できるくらい、今の貴方が大好きです。」

 

そう書きました。

 

 

 

この時は気づいていなかったけれど、この間大好きなshe is summerの「エンドロールの先を行く」という歌を聴いていて、いつしかこう思ったことがあったな、と振り返ってみたの。

 

 

私に関わる全ての人が、それぞれの人生で向き合ってきた全てのことを乗り越えなくちゃ私と巡りあえなかったのだとしたら、それは私も同じことで。

 

私が経験した全てのことが、今の私を作ってくれた素材で、今の私を好きでいてくれる友達にとって、無くてはならない出来事だったのかもしれない。

 

 

 

そう思ったらターニングポイントはやっぱり、あの時の別れだったかなあ、と。

 

 

 

 

 

私は、あの時の別れに感謝するくらい今の自分の置かれた境遇に満足しています。

 

 

ありがとう。大好きな思い出も大嫌いな思い出もぜんぶ。

 

 

この文章が届いても届かなくても、私はここに、今日の私として、残しておきたいなと思いました。

 

 

 

 

もし、あの時の私のように、絶望を感じたり、死を試みてみたり、なにかを見失いそうになった人がこれを読んでくれているのだとしたら、想像もつかない未来の自分のこと、少しだけでもいいから思ってあげてみてほしいな。

 

 

 

 

 

 

 

 

遠い夜

 

 


広い夜が寂しくて、何かと向き合って何かで満たされて、空虚を埋めたくて、そんなときに誰かと電話するよりも先に思想と向き合おって思い始める宗教的なあむちゃんの、ただの戯言。御託。精神世界のお話です。


すきとさみしいの話。を結構多くの方に読んで頂けたみたいで光栄です。どう思ったかな。
内容考える時は独りの世界だけど、発信してしまったらそれはもう会話だと思ってるから、正解なんてないから、教えてね。リプでもDMでもラインでも。




本題。

こないだ買った本に、

「私の心は誰かが私に触れるから生まれ、心と呼べるのだと信じ耐え抜きたい。私の心は誰かが持って居て、誰かの心は私が持っているのだと憧れていたい」

っていう一文があって、その文は、その文を表現する単語が見つからずに居て、先に進めずに居た壁そのものであるように感じました。

 


私はどちらかといえば、メンタルが強い方ではなくて、それをいかにうまく逃すか、いかにうまく、そして程よく向き合うのかを考案したときにきっと、形而上学的な思考にシフトチェンジするかのように物事と向き合います。でも、

この一文はなぜか、全くもって違和感を覚えなかった。
そして共感できました。感化なのか、共感なのかは未だわからずにいるけれど。


 

 

 


形而上学は、“世界”そのものを肯定する思想の傾向。
その“世界”に“私”は存在してなくって、わたし自身が作り上げた“世界”とは異なり、当人の人生、当人の思考とは、全くもって別の世界と考えるのが妥当です。


私はずっと、そういった広い世界の中の自分と向き合って、どこか遠くから自分や周囲の環境を眺めて、「こうしよう」「ああやってやろう」というよりかは、自分をどこかで操っているような「こう言わせたら面白い展開になるな」だとか「こうやって接したら楽しめるかな」って、一歩下がって物事を考えたり。

 

 

 

 


一言でいうなら「客観視能力」。そんなものが根付いていて。

 

 

 

 


だから、辛いことを親身に受け止めたりしなくてヘラヘラして生きていられるのだけど。

 

 

 


でもそれって淡白で、ものすごく寂しいことでもあってね。

辛いこと、しんどいこと、怒り、悲しみをフルダメージで真っ正面から喰らわないのはとてつもないメリットなのだけど、嬉しいことを素直に嬉しいって思うよりかは「まじ?」「えそれもしかしてわたし嬉しいやつじゃん」「っしゃー」って段階踏む(笑)し、「欲=損得感情」なときが多々あったり、それってなんかすごく機械的というか、せっかく人には他の生き物と比べられないくらいの感情があるのに、勿体無いなと思う時が多い。それを表現する日本語だって少ないわけではないのに。

ましてや私は、こうやって感情と向き合うのが好きだから、どうせならぜんぶぜんぶ、味わい尽くしたい。




客観視能力があるから私は、マイナスなことからスルスル通り抜けて、真っ正面から向き合わないでいれるのだけど、あくまでも、順序はその逆で。「客観視できる→マイナスがあってもつらくない」じゃなくて「つらい→客観視しよ」って、こういう能力が備わったんだよ。
なら、そうやって外側から見続けた世界の中で、マイナスを受け止めたら、つらいことと向き合ってみたら、それ、私の世界って、「つらい」というよりかは「「つらい」と向き合ってる」になるんじゃないかなって。


そうやって、つらいこともぜんぶ「味わう」に変換できたらなあ。


とは言ってもつらいもんはつらいよね。だからその時にもうちょっと、その時の感情を知り尽くして、分析して、書き留めておけるような、バランスの良い感覚で向き合えたら良いなと思う。
せっかくだから、その瞬間の、その時の私の目線でしか見れない世界を知り尽くしておきたい。



影響されることはとってもいいこと。
だれかに喜ばされたり、驚かされたり、期待したり、絶望したり、泣いたり、怒ったり、孤独感を味わったり。
それは、「好き」や「尊敬・憧れ」がないと成立しないもので、だから、故意的に味わえるものではなくって。


でも、好きだからこそ、「いいこと」だけでは済まされないくらい暗くて遠くて広い夜だってあるわけで。



その影響がプラスかマイナスかで、結構向き合い方も考え方も感じ方もなにもかもが変わってくるよね。だから錯乱してたんだー!て、はじめに書いた文章を読んで共感してしまった自分に違和感を抱いて、解剖してみて、わかったこと。

いいことは「いいこと」として真正面から受け止めて浸透させるのに、よくないことは「「よくないこと」と向き合ってる」ってフィルターかけて生きてるから、錯乱してた。




それが「上手く生きてる」というならば、そうなのかもしれないけれど、毎日そうできるわけでもないよ。余裕がない日は尚のこと。





そこで、最初の文。
とにかく、きっと、私は独りになりたくないんだとおもう。
客観して、つらいときは独りになろうとするくせに、私の心の主導権は“誰か”がよくて、“誰か”の心の主導権は私がいい。

でも、その“誰か”次第で、どんなに晴れた日でも、どんなにお金や心に余裕がある日でも、どんなにハーゲンダッツが安売りしてる日でも、死にたい日に変わってしまうことだって避けられない。


理屈ではその相互関係がとてつもなくリスキーだって、わかってるんだあ。


理屈と虚無感がいったりきたりして、勝ったり負けたりして、落ち着かない。



だから解決はしてない。わかってるんだけど、わかりきれない。








でもね、解決してると思えばしてるんだ。

この天秤が、綴ったうちの、「味わいたい」に当てはまるのであれば。






なんか、続きがある、と匂わされて完結した映画みたい。





このブログ、完成…したつもりはないけれど、終わらせるのに2ヶ月くらいかかった(笑)


いろんな心が染み込んでるなあ。

 

 

 

 

境界線

 

 

 

 

恋愛感情と友情の境界線ってなんだろう

 

 

 

 

って、みんなもきっと知っているであろう()ある友達とファミレスにいたときに、私がふと口に出した時から、私と、その子と、遠くにいる素敵な思想をもった友達の3人で長々と考えてたのね。

答えがわかったから綴るってわけじゃないけど、なんかちょっとスッキリした気持ちを見つけたから、記しておくね。

 

私が思ったのは、んー、私の経験からすると、恋愛感情って存在しない。

 

設問から逃げたわけじゃないけど、いろいろ考えてたどり着いたのがここ。そもそも2択で考えてたのが間違ってた。ちょっと柔軟な思考で、斜め上から考えた時に、あれ、そもそも恋愛感情ってなんだ。って。

 

愛情を感じる瞬間や、確認する瞬間、芽生える瞬間って分かりやすいくらい分かる。悔しいくらい。怯むくらい分かる。

 

けれど、恋愛感情を感じる瞬間、芽生える瞬間ってわからないなあと思って。

 

存在自体を無くしてしまうことほど切なくてつまんないことってないと思うけど、大好きな人ができたにもかかわらず、未だ、私のこころの中に恋愛感情って存在してない。

私の恋愛の形がそうなだけなのかなあ。抱く気持ちが、大きすぎるのかなあとも思うけど。

 

 

ネットで「恋愛感情」って検索しても「恋愛感情 ない」「恋愛感情 わからない」

友達の話聞いても「好きって何?」「好きがわからない」

めちゃめちゃ分かる。本当に本当にわかる。私もわからないもん。

 

 

 

きっとね、恋愛感情っていう幻想、世界が創造しすぎてる。

彼氏とか彼女とか、すきぴとか推しとか、そんな類の存在を代名詞にしてしまったことがそもそも違う。

 

 

私の中で、恋愛感情はときめき。「どちらかといえば好感」な相手に「当たり障りのない程度のキュンとくる行動」をされたら、きっと相手が誰だろうとときめける。そんな気しない?それを恋愛と勘違いして心の中にしまい込んでる人が多いんじゃないかな。

でも、「推し」の概念があったり、冷静だったり、淡白、感情を並べ出して客観視できる人、は、勘違いしない傾向にあるかなって思う。私の周りの感じだと。総括して表現すると自頭がいい人。

 

 

 

じゃあ、愛情ってなんだ。って、なるよね

 

 

愛って、それを向ける相手が動物だろうと同性だろうと、生命のないものだろうと芽生える感情っていう印象。

 

私が愛を感じたのは、

笑ってる顔が好き、から、眠っている顔が好き。に切り替わった瞬間かなあ。

 

 

 

 

わかりやすくいうと、友情や人情、温情っていう大きな箱の中に、愛情っていう小さな箱があって。

 

その大きな箱だけに入ってる人か、大きな箱の中にある小さな箱に入れているひとの二択。

 

 

だから境界線が難しかったんだって思って。選択肢がそもそもくっきり二つに分かれているわけじゃないから。

 

 

それでね、すっきりしたの!

 

 

愛なんて、それはみんなわかるよね。恋愛感情の進化系が愛なわけじゃない。

 

愛しいとか、自分のことが疎かになっても何かしてあげたいとか、自分よりも幸せになってほしいとか。

 

そうやって考えたらなんか、簡単になった気がするの。

「ときめき」を勘違いして付き合ったり、好きになった過去はいい思い出ない本当に(笑)慣れちゃうんだもんときめきって。なくなるもの、当たり前に。

楽しさやわくわくを選ぶならときめきを推奨するけど!!その手の話もだいすき!!!恋愛観はカスだから!!!

 

 

ていう、私の見解。

 

今の私は、恋愛を知って、前より人間味が増したって友達に言われてね。

淡白で、全部どうでもよくて、だからこそ自分の世界を保てて、そんな私はもう居なくって、それはちょこっと寂しかったりもするし、今はアンバランスすぎるし。

まだ恋愛と私を上手に天秤にかけて、幸せを心に染み込ませたり、その天秤のうえで、自由にしたりできる余裕はないけど。

 

 

 

今の私のバランスだからこそ見える世界と感じる空気があるから、刹那を愛したいなあ。

 

 

感情ってたのしい、みんなはどう思いますか。

ベッドに潜って寂しさを感じた時に考えてみて。私のこと思い出してみて。

 

見つかったらおしえてね。

 

 

 

 

 

 

 

すきとさみしいの話。

 

 

 

「真夜中が寂しくてよかった。季節も雨も香りも、寂しくてよかった。ディズニーランドもプラネタリウムも、放課後も帰り道も、青春も、寂しくてよかった。」

 

 

これは私がいちばん好きな、私の参考書とも言えるエッセイの一文です。

 

エッセイや精神論の解釈の仕方って、個人差があると思うし、自分の精神状態や環境でも変わってくると思うのね。だから、今の私の捉え方を綴っておきたくなりました。みんなの捉え方も知りたいから「いつか別れる。でもそれは今日ではない」買って!!そんで読感送りつけてきて!!!お願いね!!!

 

 

 

まずこの一文を読んで気づいたことは

 

「寂しいから好きなんだ」です。簡単にいうと、「好きだから寂しい」。

 

 

終わった後寂しいからリピートしたくなるし、好きだと思える。好きだって思えるものはきっとそれをしてる時間よりそれに想いを馳せてる時間の方が長い気がするんです。その間に愛が膨らんで、好きだと思えて、それ自体が好きだというよりは、それに心を寄せてる時間が、なによりも好きなんだ、と。

 

"それ"は人それぞれだと思うし、"それ"が空間なのか、物なのか、人なのかも人それぞれだとは思うけど、作者さんがはっきりしてるようでしてない言葉の選択をしてくれるので全員に当てはまれるような文章でした。素敵か。

 

 

好きなものはずーっとしてたいし、ずーっと求めてるし、ずーっと探してる。でもきっと、ずーっとあったら、好きじゃなくなる。

「デートは盛り上がったところで切り上げろ」といろんな所で耳にするけど、きっとそれと原理は同じで。ずーっと好きなもので楽しむためにはずーっと好きでいなきゃいけなくて。そのためには、ずーっと恋しく思ってなきゃいけない。好きなものに対しての感情は「8割寂しさ:2割好き」くらいが丁度いいんだ、と改めて思えました。

 

ヲタクしてる時にさ、もちろん、寂しい時間の方が多いわけじゃん。会えないし!会えても2時間だし!!ファンサくれるかどうかなんて賭けだし!!!

 

私は、現場が決まった2ヶ月前、それを糧に頑張れる1ヶ月前、わくわくしだす5日前、どきどきする当日。終わった後の余韻。その全てが捉え方によっては寂しい時間だと思うんです。

 

 

でも、「楽しみ」とも言える。そこに大きな好きがあるから。2時間のために、2ヶ月も前から下準備して、想いを寄せて、ほんっっっっとにヲタクって可愛いよなあ(なんの話)

 

だから、好きと寂しいは紙一重だなあって。

 

人は悲しくも慣れてしまうものだから、求めるけど、手に入ったらなんか違うってなると思うんだ?

小さい頃に感じたディズニーのわくわくも、電車に乗るだけで楽しかったあの感覚も、初めてコンサートに入ったときに感じた大きな感動も、初めて好きな人と手を繋いだ時の、キスした時のときめきも、もう2度と体験できないものであるのと同じで。

 

回数を重ねたらまた違った感覚になるんだとは思うけど、やっぱり初心は初心にしか過ぎない。寂しいね!!!めっっっちゃ寂しい!!!

 

でも、その寂しさを感じてなかったら、求めてないし、好きを持続できていないし、やっぱり寂しくてよかったなあって、思いませんか。

 

なにかがおわった後の空虚を、愛おしいって、思いませんか。

 

 

 

 

 

高校を卒業して、1人暮らしを初めて、1人でいる時間が増えて、あんなにだいすきだった1人の時間が、もう、さみしくて怖くて。

やっぱり「今すぐ誰かに会える状況下の1人」と「ただただ1人」は違うなって実感したの。

 

でも、この本を読んでから、この文に感化されてから、その「寂しい」すら今は愛おしく感じる。

私の中に、気持ちが熱くなるような、癒しを感じるような、人や空間が、複数存在するから、寂しいと隣り合わせの状況だからこそいつでも一人じゃない気がしてる。

 

そりゃ寂しさは消えないよ!!!寂しいもんは寂しいよ!!!「会いたい」とか「行きたい」とか「冬になってほしい」とか「洋服ほしい」とか「高校生に戻りたい」とか、数え切れないほどの欲を我慢できるほど大人ではないし。

 

でもそれを愛せるか愛せないかで心のあったかさはぜんぜん違うなあって。

現実的な話すると、鬱になりかけた時に、ただ愛せるものがあるだけで死にたくなることが減ったの、私の場合はね。

その愛せるものの対象が「寂しさ」だったら、もう無敵説ない?いや無敵だよね?しかも

好きなものに与えられる寂しさならよくない?むしろエモくない?メンタルヘルス的発想かなそれは()

 

 

 

とにかくね、寂しいと隣り合わせの環境すら愛する意味はあるんだって、この本を読んで知ったの

 

 

 

私本当はクソみたいな恋愛しかできなくて、恋愛っていうか疑似恋愛。とりあえず駆け引きして、転がせられたらキュンキュンして、すきになられたら終わりで。みたいな。いやまじでクソ。

今のかれぴと付き合うまではずっとそうだった。生意気なことに小学生からずっと。恋ってなんですか本当に相手を想うだけで涙が出るような感情って存在するんですか恋愛ってひとときのときめきのことじゃないんですか。みたいな。まじでクソ(n回目)

 

 

ジェットコースターみたいで楽しかったけど、計算してる私を好きになってもらうってすごく、なんかすごく、寂しくって、その寂しさは愛しさとはかけ離れてて、ただの空虚にしか過ぎなくって。

安定よりは遥かに楽しかったし、周囲の人もきっと前の私の恋愛事情の方が楽しんでくれてたけど、それと同時にたくさんの人傷つけたし振り回したし泣かせたし、後悔はしてない()けど反省はしてるよ!!!!でも楽しかったのは事実(反省してるよ)(してる)

 

 

でもそんな自分の曲がった恋愛観も愛してはいたつもりだよ。だからこそまともに恋愛できない自分になんともいえない寂しさや虚しさを感じることもあったけど。

 

そうやって全部を綺麗なフィルターに通して、言ってしまえば正当化なのかもしれないし、綺麗事なのかもしれないけど、この本を読んだお陰で少しは自分にない観点を持つことができたのは事実。

 

 

大事なのは認めること。自覚すること。呑み込んであげること。自分の感情を全部まとめて。それに気づいてから救われた気がしてね、だからこの本をおすすめしたい。心の底から!

 

 

 

 

1つの出来事に発生する理屈・感情は、自分が気づいてないだけで1つじゃないかもしれないよっていう素人の戯言^^